ハリルホジッチの解任とW杯
ハリルホジッチが解任されて、色々言われているから少し書いておこうと思う。
個人的にはハリルを解任すべきだったとはまったく思わない。目先のW杯での好成績を望むとしても、その先を見据えたとしても。
ハリルホジッチというのは対策の監督なのであって、超受動的な戦術に長けた監督なのである。
その実力が発露したのはW杯最終予選のオーストラリア戦であり、それのみでもある。
オーストラリア戦で日本は相手の良さをすべて消し、その上でカウンターで得点を奪って完勝した。これはもちろん偶然などではない。相手の戦術を分析し、研究し、対策を施したことにより、ハマった試合を意図して作り出したのであり、これこそが正にハリルの手腕であった。
であれば。ハリルはW杯本戦に向けて相当に深く相手の研究を進めていたはずであり、解任は無念であろうなぁと思う。と同時に親善試合についてはそれほど真面目に相手を研究することもないはずで、そういった試合はそれよりも任務を遂行できる選手の見極めに使うのはまた当然でもある。
つまりハリルの目線では、フィジカルで負けないこと、デュエルで勝つこと、カウンターの意識を持つことが親善試合において選手に求められるすべてであり、それを満たした選手を選出した上で、本戦では対戦相手に応じて特別な戦術を授けるという青図があったはずである。
逆に言えばハリルのサッカーとは主体性を極限まで排除したものであり、分析・研究・対策を行わなかった試合では戦術がないのである。この主体的戦術のなさが本田を始めとした主力選手たちの不満につながったことは想像に難くない。
一方で主体的戦術の有無よりも、フィジカルの強さ、デュエルの強さ、カウンターの意識の方が、将来的に日本代表を、Jリーグを強くするであろうこともまた確かである。要するに、日本スタイルの確立よりも先に、するべきことがまだあるということだ。
だからハリルホジッチの解任が日本サッカーの後退であるという意見に同意する。
ロシアW杯ではどんな結果がでるかは分からない。「日本スタイル」と思われるサッカーをして、勝つかもしれないし、負けるかもしれないが、いずれにしてもそれが日本サッカーの進歩にあまり関係がないのは確かである。
日本サッカーの進歩により影響があるのは、ハリルが残したもの、フィジカルで負けないこと、デュエルで勝つこと、カウンターの意識を持つことが日本のサッカー界に根付くかどうかに懸かっている。
個人的な希望を言えば、やはり日本代表にはそれなりに楽しませてもらいたい。真剣勝負のGLで1勝なり、1引き分けなりして、楽しかったと思わせて欲しい。その一方でハリルが選手たちに求めたものが生きてJリーグのレベルを少しでも引き上げることを期待したい。
そう思うのはわがままだろうか?
2018サッカーW杯と、その後の日本代表について
今日はゆるくサッカーについて語りたい。
W杯に挑む日本代表についてだ。
なんだかんだ言っても代表の試合は見ていて面白い。Jリーグの試合よりは。
なぜならプレイスピードが速いし、1対1があるからだと思う。
パススピードが遅くて、ディレイで守備をした気になってるDFの多いJリーグの試合は見ていて欠伸が出る。
この点はリーグ戦の方が代表より面白いヨーロッパとはまったく異なる。
で。面白さはさておいて。
ハリルホジッチを解任しろという声が結構あるわけだ。
まぁ気持ちはよく分かる。スポーツ新聞を読む限り、ハリルが「縦に早く」以外の指示をしているのを見たことがないから。
多分コミュニケーションの失敗なんだろうなぁと思う。
カウンターというのは相手の守備陣形が整っていない時に効果的なのであって、そうでない時にはあまり意味がない。守備陣形の整った相手に縦に早くするのはただの焦ったプレイであって、ボールを失うだけだ。ボールを失えば守備に追われることになり、無駄に体力を消耗するし、時には逆にカウンターを食らって危ない目を見る。
さすがに何時いかなる時も縦に早くしろとハリルホジッチが指示しているとは思いたくない。
そもそも強いチームというのは速攻も遅攻もできるものだ。
それにカウンター主体のチームであっても、常に相手にボールを持たせるわけではない。
カウンターというのはショートであれロングであれ、多くのスプリントを要求する戦術であって、90分のカウンターというのは余程大きな体力差がなければ不可能だ。
そういう状況は多くない。だからボールを保持して休む時間が必要だし、ボールを保持する状態からシュートで終わる遅攻の形も不可欠なのだ。
2014年のW杯で日本のポゼッションサッカーは確かに敗北した。
しかし。だからポゼッションを捨てることが正しいのだろうか?
何故日本がポゼッションサッカーを志向したかを思い出すべきだ。
その前提には日本人がフィジカルで劣るという現実がある。
フィジカルで。つまり高さで。足の速さで。足の長さで。そして身体の強さで。世界に対し劣るという現実の前で、ポゼッションを高めることはピンチを遠ざけるための手段だったはずだ。
そしてその前提は今も変わっていない。
ということは。他に手段が見つからない限り、日本が世界との差を埋めるための手段は相変わらずポゼッションなのだ。
勘違いしてはいけないのは、ポゼッションを志向するということは速攻を否定することではないということだ。相手の守備陣形が整っていない時には、縦への意識を強く持ち、早く攻めるべきだ。しかし人数が足りている時には無理に攻めるべきではなく、遅攻を仕掛ける時には攻めつつもカウンターへの警戒が必要になる。
今の日本代表を見ていて思うのは、急激に逆へと振れる日本人の国民性でもある。
2014年のW杯の教訓は、ポゼッションを捨て去ることで良かったのだろうか。
そうあるべきだったとは、僕には思えない。
戦略的利益を共有しない韓国
文在寅政権の目的は朝鮮連邦の成立である。
そして目的とする朝鮮連邦は核とミサイルで武装している方が望ましいとさえ思っていてもおかしくない。
文在寅政権の行動を理解するポイントは2つ。
1.連邦政府の成立と統一は異なる
南の目標は朝鮮連邦までで留まっており、統一は遥かに先の出来事である。しかし北はそうではない。
常識的に考えると核とミサイルを持ったままの北朝鮮との連邦では、遠からず南は武力による抑圧を受けることになる。事態は合同演習の中止から在韓米軍の撤退、米韓同盟の撤廃へと進み、韓国の自由と民主は大きく損なわれることになるだろう。そしてその先にあるのは北による赤化統一である。
しかし親北派の世界観では連邦政府の成立により南は北の武力の脅威から逃れることになるので、これについて韓国世論を説得することは難しい。
2.核とミサイルは所持したままが望ましい
朝鮮連邦が成立すれば、北の核は連邦の核、北のミサイルは連邦のミサイルとなり、大国たる日中に対抗し得る、とするのが親北派の世界観なのである。
我々からすれば朝鮮連邦成立後も北の核は北の核、北のミサイルは北のミサイルであるので、最も抑圧を受けるのは南という結論になるが、韓国世論は連邦の成立で諸問題がすべて解決するというお花畑理論なので理解を共有することは不可能である。
以上を踏まえ、
・基本的価値観を共有せず
・戦略的利益も共有しない
ことを前提に、日本は朝鮮半島有事に備えなければならない。
本来であれば韓国は民主化にあたり、
・米韓同盟が国防の基軸であり、後ろ盾として在日米軍基地があること
・中国に経済的に過度に依存してはいけないこと
などを教育しなければならなかったが、いずれにも失敗した。
現在はこの帰結である。
これが現実である。
人の欲、そして寿命
あちらこちらで触れられていることではあるけれど、希望の党が負けた理由について。
「排除」という言葉がマスコミに利用された面はあるものの、それは主因ではなくて、一番の原因は小池氏に時間がなかったことじゃないか。
時間というのは突然の解散で選挙の準備ができなかったということだけではなくて、小池氏の年齢から考えて、総理の座を狙うには「次の次」ではダメだったということ。
もっと若ければ「次の次」を考えられたと思うのだが、小池氏はそんな悠長なことは言っていられなかったのではないか。
何としても今回で総理の座を掴もうとした結果、金と候補者の不足が生じ、必然として民進党の候補者を呑み込むことになった。それが不和と野合の批判を呼び、五輪と市場問題への対応の批判や都政投げ出しの批判と合わさって、自らが立候補する雰囲気を壊してしまった。
まぁ自業自得ではある。もし五輪や市場の問題を適切に処理し、行政手腕を発揮していたならば、都政を投げ出すとしてもそれほど批判は大きくならなかっただろうから。特に市場問題については自分で散々危険と煽っておいて、安全だが安心がないなどと言い出し、挙句に玉虫色の方針を打ち出してお茶を濁すという体たらくで、しかもその間に税金は垂れ流しなのだから擁護のしようもない。
あるいは彼女は、自分に行政処理能力がないことを自覚していたからこそ、焦って今回にこだわったのかもしれない。だとすれば尚の事、不出馬という結果は不可解なのだが。
兎も角、小池氏の政治寿命は今回の一件で尽きたと言っていいだろう。国政復帰の腰掛けと考えていたならば、都知事を続ける意欲すら失った可能性もある。
急いては事を仕損じる。しかし急かねばならない人もいる。若干の悲哀を感じなくもない。
選挙にて
国会は立法機関なのだから、選挙において前職議員が示すべきは、
・法案の提出実績
・質疑による法案の修正実績
・各法案への投票実績
であるはずなのに、政策とか、他党の批判とか、二の次三の次でいいことに多大な時間が使われている。
政策ももちろん重要だが、それは政党が語れば良いのであって、個々の候補者が細かな政策を論じたところで絵空事でしかない。
個々の候補者が政策を語ることが有益な場合というのは、政党と候補者の考えが異なるときであって、それは例えば緩和的な金融政策に反対しているとか、安保法案に反対しているとか、改憲に反対しているとか、そういう異分子を発見できるくらいではないだろうか。
もっとも立法の実績を語れと言われても、野党の人の大部分が反安倍しかしてこなかったわけで、前職でありながら語るべき実績がほとんどないのかもしれないが。
せめて明らかな有事解散なのだから、北朝鮮に主軸を置いて論戦を張ってくれればまだ良いのに、正面から語る党首も少なく、マスコミも平時の選挙戦報道に終止する始末で、この国の平和ボケはどうにもならないと嘆息するばかりだ。
そんなことを考えつつ地元の前職議員のHPを見に行ったところ、今時利益誘導を誇っていてたまげた。
日本の真ん中
希望の党が失速した。
立憲民主党ができたことで、左右のポジションがよりハッキリしたことが大きい。
希望の党のスタンスが悪いとは思わないが、"現時点で”日本の真ん中がそこにはないことは明らかだ。
過激なことを言う人は目立つが少数派である。
自民党より右側には今のところ少しの人しかいない。
スタンスよりもはるかに悪いのが希望の党の候補者の質だ。
未だに「反安倍」を叫んでいる民進党出身者が多数いる。「反安倍」の結果として何がもたらされるのかを語ることもなく、ただひたすらに「反安倍」である。「反安倍」以外の言葉を忘れてしまったに違いない。
そんな彼らは希望の党にとっては毒にしかならない。明らかな左派でなかったとしても、選り分けて避けるべき毒部だった。それを結果から見れば希望の党はたっぷり食らってしまっている。選挙後に腹を下していることは間違いない。
一方で毒饅頭を食わないなんて寛容ではないと宣う毎日新聞は噴飯ものだ。腹を下した他人を見るのが余程好きなようだ。趣味の良いことだ。